(注2) 死を待つ人の家とは?
1952年に、路上で死にそうになっている人を連れてきて、最期を看取るための施設として設立。インドで結核、栄養失調、マラリアなどの大病を患うと、貧しく医者に行けない低カーストの人間の場合、回復する見込みの無い人間を養う余裕はない、一緒にいると伝染する可能性が高いという理由で、家族によって路上に棄てられます。インドの中でも最も貧しく傷ついた人々に、「せめて死ぬときくらいは人間らしく」との思いで設立したとされています。 
(注1) マザーテレサの家とは?
正式名称「Missinonaries Of Charity」(神の愛の宣教者会)。1948年、修道女を辞めてカルカッタのスラム街に移り住み、貧しい人々や孤児、ハンセン病患者らの救済活動を始めた。1950年、自ら修道会を設立し、インド国籍を取得。このころからマザー・テレサと呼ばれる。テレサは孤児院、ハンセン病患者の医療施設など次々に貧者・弱者救済の場を広げ、現在は世界200以上の都市に施設を持ち、3000人以上の修道女、支持者が活動する。  

ボラみみバックナンバー>ボランティア体験記

ボランティア体験記 市川咲子 in インド 前編


<マザーテレサの言葉で、 インドでのボランティアに興味をもつ>
 「最も悲惨なことは、飢餓でも病気でもない。自分が誰からも見捨てられていると感じることです」。マザーテレサのこの言葉に感動した私は、ホームステイをしながら、マザーテレサの家(注1)でボランティアが出来るものをインターネットで探し、大学の卒業旅行で参加しました。そこで11日間ボランティアをする予定でしたが、事情により途中で帰国しなければならなくなり、帰国後また行きたいと思いつつその機会もなく過ごしていました。それが、ホームステイ先のお母さんが名古屋で講演会を開き、その再会がきっかけでもう一度行くことを決心し、2002年12月〜2003年3月までの4ヶ月間、1人で行ってきました。
マザーテレサの家では、「死を待つ人の家」(注2)でボランティアをしました。マザーテレサの家には他にも6つのボランティアがありましたが、中学2年生の時に大好きだった祖父を亡くし、その時に最期まで看取ることが出来なかった後悔と、マザーテレサが初めに作った施設だという思い入れもあり、「死を待つ人の家」を選びました。念のため予防接種をしてから施設へ向かいました。













<「死を待つ人の家」での1日>
施設は30坪ほどの土間のような大部屋で、ぎっしりと隙間なく簡易ベッドが並んでいました。内部は洗濯用の消毒薬と汚物の臭いが混濁していました。患者は性別で場所を分ける以外は何の仕切りもない部屋に収容され、大半の患者はそこで毛布に包まりながら寝ており、人手を借りなくては移動すらできない状態でした。身体は痩せこけ、目は虚ろ、表情そのものが無いといった感じでした。そんな中、シスターとボランティアが患者のお世話をします。まず朝食を配りベッドのシーツや枕カバーの取り替え、その最中に全身の洗浄、トイレ介助をします。それを済ませ、食事が済んだ方から食器を片付け、洗浄します。シーツや衣類は足踏み洗浄し、硬いブランケットも全て人の力で絞りあげます。汚物のついた物も、一つ一つ丁寧に人の手で汚れを取ります。これらの全てを流れ作業で進めていきました。ボランティアは、命じられてではなく自分で仕事を見つけて働いていました。全身洗浄を終えた方には怪我の処置をしたり、ボランティアの手で直接オイルを塗ったりマッサージをしてあげました。30分程度の休憩後、昼食を配り食器を洗浄し、仕事を終えます。私たちには普通に生活するという当たり前の事が、ここではとても喜ばれました。施設はいつも死と向かい合っているため雰囲気は深刻でしたが、得るものは沢山ありました。


「死を待つ人の家」でミサが行われたときの様子
「死を待つ人の家」でミサが行われたときの様子

<インドで得たこと、感じたことを、 たくさんの人に伝えたい>
インド滞在中、体調を崩して寝込んだり、下痢が続いたりと、体力的にも精神的にも、しんどいこともありました。初めはただただ戸惑い、みんなの動きを見守っているだけの自分でしたが、場の流れをつかみ始めた頃には自分もその場の一員になれたことに対する充実感で一杯でした。彼らの手や体は、か細く今でも折れてしまいそうでしたが、とても温かく、生への力強さがありました。言葉の通じない世界でも心があれば気持ちは十分伝わるんだ、言葉など必要ないんじゃないかと思えたほどでした。現地で精一杯生きている方たちの姿を、見て知れただけでも良かったと思います。「何もしなくても、そこに何かで苦しんでいる人がいることを知っているだけでもいいのです」。というマザーテレサの言葉がありますが、その意味を知ることができた今、次に私は何をすべきかと思った時に、伝えることの重要性を感じました。みなさんがこの文章を読んでくださること。そのことだけでもとてもありがたいです。


この経験を活かし、今「キッズゲルニカ」の活動を名古屋で始めました。
「キッズゲルニカ」
1937年、ピカソがスペイン市民戦争の時ゲルニカの町への残虐な爆撃に抗議して制作した絵画「ゲルニカ」。これと同サイズ(3.5m×7.8m)の巨大キャンパスに、世界中の子どもたちが平和の絵画を描くプロジェクト。
URL:http://www.kids-guernica.org/ja-index.html
●イベントで作品を点検してくださるボランティア・絵を  描きたい子を募集しています。
【日時】4月1〜8日(特に3、4日)
【活動場所】徳林寺 名古屋市天白区野並相生28-314
【問合先】市川咲子 TEL:052-892-0504
E-mail: sakisakikosaki@hotmail.com


市川咲子さん 市川咲子 
名古屋市生まれ(25) 。名古屋芸術大学美術学部で油絵と、版画を専攻。在学中に行ったタイ旅行で旅行に目覚める。大学卒業後、インド滞在中に一人旅したことから教育の大切さに気づく。最近はアートセラピーに関心を持つ。


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