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感情ドキドキ ちひろ通信
 障害児を持つ聴覚障害ママ・ちひろからの通信
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平野ちひろさんの写真 「保育園勤務時代」
〜渡米のきっかけになった障害児教育との出会い〜
2003年1月
平野 ちひろ
聴覚障害者。子ども3人のうち、2番目の息子がダウン症。平成9年8月から、息子の療育を目的にカリフォルニア州立大学ノースリッジ校へ語学留学。子どもたちはそれぞれ、アメリカの小学校で1年間学ぶ。現在、ハッピーサークル(手話サークル)、ASL手話講座(アメリカ手話)など、名古屋市北区を中心に活動。3人の子育ての傍ら、障害児の母親たちと活躍中。


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 結婚して6年、子どもがのびのびと育てられる環境を考え、それまでに住んでいた愛知県を離れて夫の故郷である滋賀へ引越しました。 そこで2年間、ダウン症のたかひろも含め3人の子どもを預けながら自らもつとめた崇徳保育園やその地域での生活は、とても大切な思い出の1ページになっています。 どんな障害児であれ、同じ人間としてまず子どもたちとの触れ合いを考えてくれた園長先生、手話を習得することで、私とのコミュニケーションを大切に考えてくれた保育士のみなさん、 働く環境としてもこんな素晴らしい保育園はないと思っています。その背景にお寺があり、基本的に宗教的な考えがあったせいかも知れません。人それぞれちがって当たり前、 自分も友達も大切に「仏様に手を合わせ、感謝の心」という教えのもとに、今でもずっと取り組んでいるそうです。

 たかひろが入園して1年後、私は臨時職員として働くことになりました。移住した滋賀県犬上郡豊郷町では保育園の臨時職員採用枠に、 65歳以上の高年齢者や障害者など、三つの条件の1つに当てはまれば職員になれるシステムがありました。 それまで私は保育園内で週2回、手話サークルで手話を教えていたので、その頑張りが認められて採用されたのです。 私の仕事は経理、欠席した先生の代わりの勤務、障害児や赤ちゃんルームでの保育など多種多様にわたりました。 自分の息子を含めた3人の障害児の面倒や、赤ちゃんのオムツ替え、離乳食を食べさせたりしていました。 園長先生の計らいで、私とのコミュニケーションをスムーズにするために毎週水曜日には子ども達に、土曜日の昼からは保護者や保育士にも 「ひまわりサークル」で手話を教えていました。折り紙を作りながら手話を使ったり、遊びの中で子どもたちに手話を覚えさせたり、 その成果として手話劇や手話ソングなど、子どもたちは保育園の生活発表会や老人慰労会に出向き、発表もしていました。 保育園内の活動にとどまらず、地域のラブハンド手話サークルの人たちと赤十字関係の行事や小・中学校の体験学習で手話講師も勤めました。 私の障害と障害児たちを受け入れて、みんなで対等に生きていこうとする保育園の教育方針はとても素晴らしかったです。 ここでの経験がきっかけで、私は息子の療育のためにアメリカへ留学することを決意したのです。


写真1 写真2
写真1 最後段左から2番目が平野さん。 写真2 保育園での手話発表会。

 滋賀ではとてもいい教育環境の中で生活できましたが、引越しの際に最も気になったことは、 ダウン症のたかひろの保育園入園のことでした。以前、別の地域で入園をめぐり、議員と一緒に約6ヵ月間も行政と交渉したことがあったからです。 市役所側は子どもの保育を重視してくれず、保育士の増員にお金がかかる、1度障害児が入れば、後から障害児が増えるなどの理由で受け入れに難色を示しました。 結局、ダウン症や自閉症という障害を理解してもらうために資料を私がかき集め、集団の中で生活可能だという医師の診断証明書を提出して、 やっと入園が認められました。その時は3番目の息子の出産1週間前で、幼い2人の子を連れての交渉は本当に大変でした。 障害児を抱えている親は少なからず、私と同じような苦労をしていることでしょう。

 現在は名古屋で生活していますが、障害児を抱えている色々な親の会と協力しながらアメリカで施行されているADA法 (身体障害者差別禁止法)という法律を作ることを目標に頑張っています。日本でもこの法律によって障害者に対する意識が変われば、 私たち障害者の将来は救われると確信しています。今後も私たちが乗り越えていかなければならない問題はたくさんあると思いますが、 障害のある者もない者も手をとりあって生きていける日が早く来ることを願っています。


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