2001年1月


名古屋市西区あし原町――。
大災害をもたらしたあの東海豪雨で
9月12日未明、新川が決壊した場所である。
そのあし原町にある重度障害者通所施設
「友の家」の被害は、甚大なものだった。
代表の戸水純江さんに聞いた。

 

戸水さん一家は西枇杷島町在住。「夜中に避難勧告が出たものの自宅待機していたのですが、決壊した後はみるみる水がやってくる。まさに命からがらで、娘の着替えと車イスだけ積み込んで、スーパーの駐車場2階へ逃げました。すぐそこまで海のような状態。自衛隊のボートが何回か来たのですが、小さくて車イスごと乗れないんですね。飲まず食わずの不自由な状態が、夕方まで12時間続きました」。


自宅には戻れず、被害を免れた第3友の家でもう一家族と1カ月間寝泊り。その一方、第1・第2友の家の被害は相当なものだった。総額1800万円もの損害。友の家は、国と市から助成を受けて運営されていたが、罹災時の補助金は、「無認可」*のということで受けられなかった。

  *国の認可施設には、通所者1名につき、毎月一定額の補助金が支給されるほか、さまざまな補助制度があり、今回の災害にも復旧のための補助金が出ている。無認可施設は、認められれば一施設に年間いくらという補助金が出るが(通書写の人数には関わらない)、その他の補助制度は基本的にない。
施設内すべてが泥水に。2日後水が引いたときには、パソコン・コピー機をはじめ、冷蔵庫までなぎ倒されていた。まず中の物すべてを運び出し、施設じゅうの泥を掻きだし・・・。
気丈な戸水さんも、さすがに何度も挫折しかける。「でも、全国から支援が届いて。共同作業所のネットワークで北海道から冷蔵庫が届いたり、阪神大震災のときにできた基金から寄付があったり。それでなんとかしなければ、と」。

全国からボランティアが駆けつけ、ゴミ処理を手伝ってくれた。泥水につかったものは不衛生で、免疫不全者のいる友の家ではすべて破棄せざるを得なかった。

  2台あったリフトカーは、災害の前日にたまたま職員が乗って帰宅、これが幸いした。災害後3週間で、リフトカーで職員が送迎し、交代で2人ずつから通所を開始した。第1友の家は復旧のさなかだったが、「西区や西枇杷島町に住んでいて、罹災したメンバーもいました。精神的なショックや片づけのある家族のためにも、1日も早く通所できるようにしたかった」と戸水さん。「今回の水害で、施設に通っていない在宅の障害者はどうしたんでしょう。考えると心が痛みます」。

車イスも水に。洗って消毒という作業を何回か繰り返したが、乾いた泥の砂が車輪や座面に入り込んで、元には戻らない。特注のため、新しい車イスの納品は何カ月も先になる。

  現在は、第1と第3友の家に、メンバーが通所している。創作タイムにポスターを作ったり、リラクゼーションタイムに音楽鑑賞をしたり。第2友の家が修復されていない以外は、水害前と変わりない日々戻った。 「家族といるだけでは得られないコミュニケーションをすることで、生きていく力を身につけてほしい」と戸水さん。「ひとりの人間としての尊厳をもち、自己実現していく場であること」が友の家が目指すところである。今回の水害、通所するメンバーと職員の、その意志を妨げるものではなかったようだ。全復旧までにはまだ時間がかかりそうだが、戸水さんの表情は力強く明るかった。
・・・・・友の家 戸水純江さん・・・・・
1943年生まれ。初めての出産時、長女・佳代子さんが重度心身障害をもつ。1990年同じ障害を持つ2人の親らと連携して、西枇杷島町で重度障害者通所施設「友の家」を開所。週に2回という通所から始めた。1994年名古屋市西区へ移転。1995年から国の助成、1996年から名古屋市の助成を受ける。1997年「第2友の家」、1998年「第3友の家」開所。現在、3つの「友の家」に20〜33歳・14名の重度障害者が通ってき、11名の職員が世話をする。佳代子さんのほか、自営業の夫、社会人の次女・大学生の長男を持つ5人家族の主婦でもある。
水害4日めの第2友の家。看板(高さ150cmほど)まで水につかった。床を全部はがして一時は鉄骨だけに。復旧工事にとりかかれたのは、つい最近だ(11月23日)
 
●重度障害者通所施設 「友の家」
名古屋市西区あし原町29 
TEL052(504)4474
「友の家」の全復旧にはまだ資金が足りません。
水害義援金のご協力をお願いします。
郵便局 口座番号 00860-2-61542
口座名  友の家



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